ドイツ海軍 Uボート

Uボート・エース

カール・デーニッツ

Uボートエースを語る前に忘れてならないのがカール・デーニッツ提督。1917年、第一次大戦のUボートエース、ヴォルター・フォルストマン艦長(U39)の元でみっちり修行にはげみ、翌年、小型Uボートの艦長としてシチリア南部で船団を攻撃中、艦に故障が生じ、浮上を余儀なくされ、英軍の捕虜になった。1919年、ようやく釈放されて(乗組員みんなで狂人のフリをしたら帰されたらしい)帰国してから再び海軍に勤務、その後順調に昇進を続けて、ついに軽巡洋艦『エムデン』の艦長になる。

1935年、レーダー提督に命じられ、潜水艦部隊を発足。1939年少将に進級し、潜水艦隊司令官となる。1943年、レーダー海軍総司令官の辞任にともない、元帥に昇進し、海軍総司令官兼潜水艦隊司令官となる。日頃からUボート乗組員と親しく接し、絶大な信頼と支持を得ていた。ヒトラー自殺後は後継者として連合軍に無条件降伏。ニュルンベルグ裁判で十年の有罪判決を受ける。刑期を終えたのちはハンブルグ郊外に住み、1980年死去。

ドイツ海軍魂 デーニッツ元帥自伝
デーニッツ回想録 10年と20日間

ヴォルフガング・リュート

WOLFGANG LÜTH

1933年4月、海軍入りし、”戦前”だけに、手間ひまかけて基礎訓練に明け暮れ、U-27の先任士官、ハインリッヒ・リーベ艦長の指揮するU-38の先任士官を勤め、艦長としての初陣は1939年のU9。海軍入隊から6年、26歳の時である。四隻のUボートの艦長を務め、クレッチマーに続く撃沈数を誇る。大戦の前期、中期に海上で暴れ、30歳で異例の海軍大佐に昇進。海軍兵学校の校長となる。しかし、ドイツの無条件降伏の一週間後の深夜、兵学校の警備兵が近くに人の気配を感じて、応答を求めるが反応がなく発砲。倒れていたのはリュート大佐だった。事故とも自殺ともとれない末期である。ちなみにデーニッツは彼を自分の後継者として指名していた。

≫『Uボートエース―異色の撃沈王その生涯と死闘の記録ヴォルフガング・リュート伝
≫『Uボート・エース(新戦史シリーズ)[文庫]

ヴィルヘルム・シュルツ

WILHELM SCHULZ

1906年ケルン生。1933年に海軍へ入隊し、商船へ乗り込む。1935年Uボート部隊へ移り、開戦時にはU10の艦長だった。U10での2回の哨戒を経て、1940年4月にU64を就役させるが、約1週間後イギリス艦によって撃沈され、8名の乗組員を失う。2ヶ月後にはU124の艦長として再び哨戒に出て、41年3月~5月の68日に渡る作戦で、12隻57626トンを沈め騎士十字を授章する。同年9月よりダンツィヒ(後にサン・ナゼール)の第6潜戦司令官として陸上勤務となり、終戦時には第25潜戦司令となっている。シュルツ艦長のU124のもとで先任や次席を務めたW.ヘンケ、R.ハルデゲン、J.モールらが後々エースとして活躍するようになる。

ヴェルナー・ヘンケ

WERNER HENNKE

軍艦『アドミラル・シェーア』や『シュレースヴィッヒ・ホルスタイン』にて経験を積み、最初に乗り込んだUボートはヴィルヘルム・シュルツ艦長のU124。1942年にU515の指揮をとる。この艦の三度目の哨戒(1943年4~5月)で一夜のうちに8船舶49,456トンを沈め、柏葉十字章を受ける。1944年4月、マディラ島沖で電池充電のため夜間浮上していたところ、アメリカ護衛艦に攻撃され、捕虜となる。捕虜生活の間、脱出を試みるが失敗し、射殺される。

ヴェルナー・ハルトマン

WERNER HARTMANN

1935年、水雷艇 Seeadler と Albatros の指揮者となる。1937-38年スペインの南北戦争時、U-26の指揮をとる(その時の先任仕官はギュンター・プリーン)。第二次大戦が始まるとU-37の艦長と第2Uボート潜隊の司令を兼ねるが、能率が悪いため陸上勤務のみとなった。

ヴェルナー・ハルテンシュタイン

WERNER HARTENSTEIN

1928年4月海軍入隊。数年間水雷艇に勤務後、1941年3月U-boat隊に移動した。9月4日、 U-156の艦長となり2月の初哨戒で5隻、2回目で11隻の戦果をあげる。1942年9月12日客船『ラコニア号』を沈め、260名の生存者を救出し、曳航していたところを、発行信号や無線連絡をしたにもかかわらず、米国のリベレーター爆撃機に攻撃され、曳航をあきらめた。(この事件以降、デーニッツは生存者の救出活動は行わないよう命令した。)1943年3月8日にバルバトスの東沖でまたアメリカ軍機に攻撃されて乗員56人とともに海に沈んだ。

ヴィクトル・シェッツェ

VIKTOR SCHÜTZE

油断すると艦首や艦尾を海面に突き出すという厄介なIA型(2隻しか建造されなかった!)U-25の艦長となり、不良魚雷に悩まされながらも半年で25,000トンを沈めた。(ちなみにこのU-25はシェッツェ艦長が降りた後の哨海で帰らぬ艦となっている。)

ラインハルト・ズーレン

REINHARD SUHREN

1938年3月海軍入隊。シュルツェ艦長のU-48で先任士官を勤める。1940年11月騎士十字勲章を受け、U-564の指揮をとる。41年に柏葉、42年に剣柏葉を受け、1943年には、北海地方のUボート部隊司令官となる。U-564の艦の紋章はシュルツェ艦長と同じ『黒猫×3』(シュルツェ艦長の黒猫よりチョットとぼけた顔になっている)。愛称『テディ』といい、艦橋にドでかいハンマーを飾ったり、体中を花で飾ったりと、結構おちゃめな艦長です。

ペーター・エーリッヒ・クレーマー

PETER ERICH CREMER

通称”アリ”クレーマー。1932年に士官学校へ入学。駆逐艦『テオドール・リーデル』の砲術長として開戦を迎え、1941年にU333の艦長となる。出撃の度にコルベット艦やフリゲート艦などと死闘を繰り広げ、瀕死の状態で艦を帰投させる。故に「不死身のクレーマー」とか「生命保険」との異名をとる。1944年10月にXXI型U2519の艦長となるが、初期故障に悩まされて出撃はできず、デーニッツの護衛隊長として終戦を迎えた。『Uボート・コマンダー』の著者。

Uボート・コマンダー 潜水艦戦を生きぬいた男

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