ドイツ海軍 Uボート

ドイツ海軍Uボート

Uボートの歴史

1919年のヴェルサイユ条約で、潜水艦の建造を禁じられたドイツは1935年、ヒトラー首相の元、条約破棄と再軍備、徴兵制実施を宣言。潜水艦など恐るるに足らん!と思っていたイギリスは、英独海軍協定でドイツがイギリスの35%の海軍を保有することを認め、さらに潜水艦の場合、状況に応じて100%まで認めてしまった。

エーリッヒ・レーダー提督は、部下のカール・デーニッツ海軍大佐を呼び出し、Uボート艦隊の再編成を命じた。ポーランド侵略などによるヒトラーの横暴を見かねたイギリスは1939年、ドイツに宣戦布告。とはいえ島国イギリス、第一次世界大戦ではドイツに飢餓寸前まで追いやられたのに、再軍備したドイツの軍事力を甘くみていたらしく、早速、数隻しかない虎の子空母カレイジアスや、戦艦ロイアル・オークなどを撃沈される。そこでイギリスは世界最強の海軍国の面子にかけても生命線だけは守らなければ...と、暗号解読や、レーダー開発に力を入れはじめ、空軍協力のもとUボート撃滅作戦に軍費をついやした。

ドイツはこれに対抗する開発が遅れ、撃沈されるUボートの数も増えはじめる。そこで、ドイツ軍としては"海軍にそんなに金はかけられん!"ということで、さらに開発は遅れ、建造も遅れ、修理費はかさんでゆく。そんなこんなで1945年4月ヒトラー自殺、同5月ヒトラーの後継者となったデーニッツは、作戦中の艦隊に『Uボート乗組員ニ告グ、諸子ハ、ライオンノ如ク戦イタリ』で始まる電報を打ち、各Uボート艦長に、最寄りの連合国の港へ入港するよう命令、それに不服な艦221隻が自沈し、ここに作戦は終結した。

Uボート

type第二次大戦で活躍したのは、前大戦のU-81級から派生したI型、それに改良を重ねて誕生したIX型と、UBIII級から派生したII型を発展させたVII型を中心に、機雷敷設艦として活躍したVIID型、XB型、魚雷補給用のVIIF型、燃料や魚雷、食糧を補給する"Milchkuh(ミルヒクー)"として親しまれたXIV型なども脇を支えている(ミルヒクーには魚雷発射管はない)

終戦時までに建造されたUボートは(諸説はありますが)約1170隻。その内、約863隻が作戦に投入され、約630隻が失われている。
以下↓は攻撃用潜水艦として活躍した主な艦

 IAIIAIIBIICIIDVIIAVIIBVIICIXAIXBIXCIXC40IXD2
排水量
(t)
水上86225427929131462675376910321051112011441616
水中98330332834136474585787111781178123212571709
全長(m)72.3940.9042.7043.9043.9764.5166.5066.5076.5076.5076.7676.7687.58
最大幅(m)6.214.084.084.084.925.856.206.206.516.766.766.867.50
吃水(m)4.304.303.903.823.934.374.744.744.706.704.704.675.35
速力(ノット)水上17.813.013.012.012.716.017.217.018.218.218.318.319.2
水中8.36.97.07.07.48.08.07.67.77.37.37.36.9
燃料(t)9611.6121.0522.7038.3067.0108.3113.5154165208214441
航続距離
(浬)
水上
(12ノット)
6700105018001900345043006500650081008100110001140023700
水中
(4ノット)
78353535509090806565636357
魚雷発射管艦首4333344444444
艦尾2----11122222
魚雷搭載本数1455551112142222222224
乗員43252525254444444848444457

魚雷

tpd第二次大戦でUボートが主に使用した魚雷は、潜水艦標準の53径のもので、G7a空気魚雷(TI)とG7e電池魚雷(TIII)の2タイプ。G7aは機関出力320馬力で、最大雷速44ノットの場合の走行距離6,000m。30ノットにおさえることで1万2000mまで伸びたが、気泡を弾いてしまうため、夜間攻撃に用いられた。

G7eはモーター駆動の電池魚雷で無航跡タイプ。雷速30ノットで蓄電池を摂氏30度に保った場合5,000m航走。しかし、大戦前半では誤作動や不作動が頻繁し、プリーン艦長に『木銃』といわれるほど役立たずだったらしく、その後しだいに改良されていった。魚雷の不発によりノイローゼになった艦長もいる。

Uボート・エース

1Otto Kretschmer
2Wolfgang Lüth
3Erich Topp
4Karl Friedrich Merten
5Viktor Schütze
6Herbert Schultze
7Georg Lassen
8Heinrich Lehmann-Willenbrock
9Günther Prien
10Heinrich Liebe
(世界の艦船 ナチスUボート より)
大戦中、若者達の憧れの的だったUボート乗組員。その中でも花形的存在だったU-ボート・エース。10位以内にランクされている彼らのほとんどが、1939~1940年の黄金期に海上で大暴れし、中期には捕虜となったクレッチマーと、戦死したプリーン以外は陸上勤務となっている。Uボートによる敵船舶撃沈トン数は、アメリカ参戦で展開されたパウケンシュラーク作戦で第二時黄金期を向かえるものの、対潜兵器や情報戦などでは連合軍に先を越され、その後の艦長たちは苦戦を強いられている。

それにしてもこの艦長たち、第二次大戦中の全潜水艦艦長の撃沈記録中上位33位まではドイツ海軍が占めているという、とんでもない記録を残している(連合軍とドイツ海軍では目的が違うので無理もありませんが...)
Uボート・エース

士官への道

海軍士官採用試験に合格した若者は、デンマーク東南のシュトラールズントに送られ、デンホルム島の陸上歩兵訓練学校で猛烈な基礎訓練を3ヶ月受ける。帆装練習船での3ヶ月の海上訓練、その後3~8ヶ月の練習航海で行なわれる試験にパスすると、ユトランド半島の東側にあるフレンスブルグ近郊の海軍兵学校に送られる。ここで10ヶ月を過ごし、また各艦に配属され、この勤務を経てようやく少尉に任官される。潜水艦部隊に配属されたものは、ノイシュタットの潜水学校で9ヶ月の基礎訓練に続き、水雷学校で4ヶ月の教育を受けてはじめてUボート乗りとなる。というのが基本的な士官への道。しかし開戦後は各課程の期間が短縮され、基礎訓練時に乗艦する練習艦も前線の艦となり、士官候補生のまま命を落すケースも多かった(士官不足を避けるため、大戦後期には候補生が前線に出ることはなくなった)

乗組員

Uボートは通常(VII型の場合)44名の乗組員で構成されている。士官4名、先任下士官4名、その他下士官と水兵、場合によって候補生や記者が乗り組む。第二次大戦中、Uボートに乗り組んだ士官と水兵約4万人の内、約75%が帰らぬ人となっている。