ドイツ海軍 Uボート
Uボート・エース
カール・デーニッツ
1935年、レーダー提督に命じられ、潜水艦部隊を発足。1939年少将に進級し、潜水艦隊司令官となる。1943年、レーダー海軍総司令官の辞任にともない、元帥に昇進し、海軍総司令官兼潜水艦隊司令官となる。日頃からUボート乗組員と親しく接し、絶大な信頼と支持を得ていた。ヒトラー自殺後は後継者として連合軍に無条件降伏。ニュルンベルグ裁判で十年の有罪判決を受ける。刑期を終えたのちはハンブルグ郊外に住み、1980年死去。
ヴォルフガング・リュート
WOLFGANG LÜTH
1933年4月、海軍入りし、”戦前”だけに、手間ひまかけて基礎訓練に明け暮れ、U-27の先任士官、ハインリッヒ・リーベ艦長の指揮するU-38の先任士官を勤め、艦長としての初陣は1939年のU9。海軍入隊から6年、26歳の時である。四隻のUボートの艦長を務め、クレッチマーに続く撃沈数を誇る。大戦の前期、中期に海上で暴れ、30歳で異例の海軍大佐に昇進。海軍兵学校の校長となる。しかし、ドイツの無条件降伏の一週間後の深夜、兵学校の警備兵が近くに人の気配を感じて、応答を求めるが反応がなく発砲。倒れていたのはリュート大佐だった。事故とも自殺ともとれない末期である。ちなみにデーニッツは彼を自分の後継者として指名していた。
≫『Uボートエース―異色の撃沈王その生涯と死闘の記録ヴォルフガング・リュート伝』
≫『Uボート・エース(新戦史シリーズ)[文庫]』
ヴィルヘルム・シュルツ
WILHELM SCHULZ
1906年ケルン生。1933年に海軍へ入隊し、商船へ乗り込む。1935年Uボート部隊へ移り、開戦時にはU10の艦長だった。U10での2回の哨戒を経て、1940年4月にU64を就役させるが、約1週間後イギリス艦によって撃沈され、8名の乗組員を失う。2ヶ月後にはU124の艦長として再び哨戒に出て、41年3月~5月の68日に渡る作戦で、12隻57626トンを沈め騎士十字を授章する。同年9月よりダンツィヒ(後にサン・ナゼール)の第6潜戦司令官として陸上勤務となり、終戦時には第25潜戦司令となっている。シュルツ艦長のU124のもとで先任や次席を務めたW.ヘンケ、R.ハルデゲン、J.モールらが後々エースとして活躍するようになる。
ヴェルナー・ヘンケ
ヴェルナー・ハルトマン
ヴェルナー・ハルテンシュタイン
ヴィクトル・シェッツェ
ラインハルト・ハルデゲン
REINHARD HARDEGEN
デーニッツの命名した『太鼓連打(パウケンシュラーク)』作戦の先峰を勤める。宣戦布告されていたにもかかわらず、アメリカが無防備だったため、彼のU-123はひと月で5万トンの戦果をあげる。1942年1月に騎士十字、同4月に柏葉騎士十字を受け地上勤務となる。
ラインハルト・ズーレン
ペーター・エーリッヒ・クレーマー
PETER ERICH CREMER
通称”アリ”クレーマー。1932年に士官学校へ入学。駆逐艦『テオドール・リーデル』の砲術長として開戦を迎え、1941年にU333の艦長となる。出撃の度にコルベット艦やフリゲート艦などと死闘を繰り広げ、瀕死の状態で艦を帰投させる。故に「不死身のクレーマー」とか「生命保険」との異名をとる。1944年10月にXXI型U2519の艦長となるが、初期故障に悩まされて出撃はできず、デーニッツの護衛隊長として終戦を迎えた。『Uボート・コマンダー』の著者。